公契約法・ILO第94号条約ができるまで
5、公契約法・ILO第94号条約ができるまで
公契約法は1949年(昭和24年)にILOで採択されたのでILOについて若干述べておきたい。
1)ILO(Internatiol Labor Organization)
ILOは1919年(大正8年)に設立され本部はジュネーブに置かれている。 加盟国数は174ケ国(1997年現在)である。
ILOは世界の恒久的な平和と社会正義の実現を得るために労働条件や生活水準の改善を目的としている。
従って、賃金や雇用条件について勧告したり条約を採択したりする。ILO総会で採択された条約は、 国際労働条約となり条約の批准に反対した国であっても自国の国会等権限を持つ機関に提出することになって いる。総会と54ケ国で構成される理事会で運営されている。総会の参加者(いわゆる組合大会などの代議員) は、政府2・使用者1・労働者1の4人が参加することになっている。
2)ILOと日本の関係
日本は1938年(昭和13年)ILOへの協力を中止した。
1929年(昭和4年)にアメリカから始まった世界恐慌は日本へも、その影響は大きかった。 繊維などの問屋の倒産もさることながら、絶対に倒産しないといわれた銀行も、公的資金を投入し ながらも倒産という事態が発生した。
建設職人も「我々大工も昭和の始めの不況のときは仕事がなく下駄の歯を直して食いつないだものだ」 (首都圏建設産業ユニオンの大工・故鴨田丈吉さんの談)といわれるような状況だった。
また、大学を卒業しても就職できない者も多かったし、就職できない学生を映画化した 「大学を出たけれど」という映画が人気を呼んだとも言われている。
世界恐慌から脱するために先進国は競って軍拡へと走った。これに危機感を覚えた先進首脳は、 1930年(昭和5年)1月のロンドン軍縮会議へと進んだ。
ロンドン軍縮会議に参加して調印したものの、残念ながら日本は徐々に「天皇を中心とした神の国」 として、あの悲惨な軍国主義の道を歩くこととなった。1936年(昭和11年)2月26日、 いわゆる2・26の皇道派青年将校が軍隊をひきいての皇居を占拠しようとし失敗した事件は、 その後東条英機陸軍幹部などが政権を握り一挙に日本ファシズムへとひた走った。 その後、ILOとの関係は絶たれたのである。
ジュネーブでは1940年(昭和15年)非協力的な日本をILOからの脱退扱いとした。 その後再加盟は1951年(昭和26年)である。
3)ILO第94号条約
公契約法であるILO第94号条約は1949年(昭和24年)に採択された。
当時の日本は連合軍の支配下にあったことは周知の事実である。 しかし、日本の将来展望を意識した日本の代表者はILOの規定に基づき総会に政府代表2人・ 使用者代表1人・労働者代表1人の合計4人を送った。
1947年(昭和22年)に法律171号、いわゆる「政府に対する不正手段による支払請求の 防止等に関する法律」が施行され、その中で「労働大臣は一般職種別賃金を定め政府に対し物または 役務の提供を行った場合の支払請求の労務単価および政府直用の駐留軍労務者や公共事業労務者の賃 金はこれによること」として一般職種別賃金、PW(Prevailing Wages by ocupation)制度を実施した。
なぜ、そうした法律が施行されたのか。
それは戦後のインフレと流通機構が闇市場であり、公共事業に対する不正請求を防止しなければ ならなかった。
しかし、インフレが一定の落ちつきを見せると法律171号の廃止を求める動きが強くなってきた。 1950年(昭和25年)4月25日法171号廃止案は閣議決定され5月20日廃止された。 その後、PW制度は労務賃金の部分だけ残され、1963年(昭和38年)の5省協定(大蔵・ 農林・運輸・建設・労働)へ移行となりPWは廃止された。 5省協定は、その後3省協定賃金いわゆる公共工事の設計労務単価へと移行された。
1950年(昭和25年)7月22日の参議院労働委員会で政府委員(寺本廣作氏)は山 花秀雄議員の質問に対して「労働省で研究いたしております政府を相手方にする契約にお ける労働条項に関する法律、昨年の国際労働会議(ILO)で採択されました条約に依拠 して作ろうという法律では、従来のように使用者を処罰して間接的に労働者の賃金を保護 するというこではなく、工事代金の支払分から未払賃金相当額を事業官庁なり支払官庁が 押さえ、それを労働者に払い込み得るようにすれば、その方が賃金保護としては徹底する のではにいかということで、目下その案が研究されています」(参議院労働委員会議事録 抜粋)と言う答弁になっている。
遅々として進まない労働省の研究に対して業を煮やした労働組合は1951年(昭和26 年5月15日)に参議院労働委員会へ「国等を相手方とする契約における労働条項に関す る法律制定の請願」が特別調達要員労組から原虎一議員を紹介として提出された。
その後労働省は「国等の契約に於ける労働条項に関する法律案要綱」を発表した。その 説明に対して経営者側から「労働基準法があるのに屋上屋に屋根をのせるようなもので 必要ない」「行政監督上の混乱を招く」「不平等な義務を課し違反者を処罰することは 憲法違反である」「下請業者の違反を元請に課すことは民法上の原則に反する」「契約 の自由に対する制限である」と言う猛反対がおこなった。
一方、戦後の民主化運動や労働組合の誕生は「労働者の賃金を政府が決めるのは可笑 しい。労働者の賃金は経営者と労働者が交渉して決まるものであり、労働者の団結した 力で闘い取るものである」ということが支配的であった。
労働省の公契約法の法案要綱の提出と説明は、時代背景もあったことは否めないが、 「国等の契約に於ける労働条項に関する法律案」は一部の労働組合(全駐労=全国進駐 軍労働組合)がスローガンとしてかかげるだけの運動として片隅に追いやれることとなった。
4)ディヴィス・ベーコン法
ILO第94号条約は、アメリカのディヴィス・ベーコン法がそのモデルとなっている。
従ってアメリカでこの法律がどうやって生まれたかという時代背景を簡単に触れてみたい。
ILOでの採択を18年ほど逆上る1931年(昭和6年)にアメリカで誕生した。
なぜこの法律が誕生したか、それは1929年(昭和4年)の9月3日(火)のニューヨークの 株式市場の急騰と世界恐慌に端を発する。
当時のニューヨークの株式市場は、小きざみの変動はあったものの急騰をしていた。 1年半前に比較して2倍になった株もあると言われている。1920年代のアメリカは、 将にバブルそのものであり繁栄にバランスを欠いていた。農業や紡績・石炭などの不振や 生産技術の進歩による失業者の増大など繁栄と窮乏は限界に達していた。 「絵描きは絵を描くことを止め、大学教授は大学で教鞭を取るこを止め株を買い、 株談義に花を咲かせた」と言われるくらいにバブルの絶頂期にあったのである。
1929年10月21日に株価の急落がはじまり、10月24日「暗黒の木曜日」と 言われるように、株価の暴落によりニューヨークの株式取引所の周辺は不穏な空気に 包まれ警察官が出動する事態となった。
そして10月29日株式取引所は半日で閉鎖され、その時の株価は絶頂期の半額に なったとも言われ、ビルの屋上から飛び下り自殺する者もいたといわれるくらい混 乱を来たしていた。現在の東京株式市場の株価が下落し平均株価が数日間で半額に なったとすればどうなるか想像を絶するものがあるだろう。
当時のアメリカは、失業者が街にあふれ、特に耐久生産材と建設に従事する労働者 の失業者が多かったと言われている。労働者は未来への希望を失い、生活をきり詰 め、若い夫婦は親元に居候(いそろう)をし、旅行を控え新しい物を購入すること を控えなければ生活が苦しかったと記録されている。
アメリカの中央にあるカンザス州で1889年(明治22年)に州法として公契約 法を成立させる意見が出された。その中で立法推進派から「政府事業の受注について、 建設業者間の激烈な低単価受注競争から労働者の賃金を切り離し一定に保たなければ ならない」という主張がおこなわれ、ダンピング受注をして建設労働者の賃金にしわ 寄せすることを防ぎたいということで出された。
しかし、カンザス州の公契約法の動きは「最低賃金制の確立によって労働者の賃金は 確保できるが、契約の自由に対する国家の介入である」という理由から、アメリカ国 家としての公契約法の立法化にはならなかった。
こうした反対論を打破しディヴィス・ベーコン法を成立させるには、世界恐慌という 経済的な背景の助けをかりなければならなかった。 大恐慌は建設業界に壊滅的な打撃を与えた。建設投資の激減は労働者の供給過剰となり、 とりわけ建設労働者の賃金が下落することになった。
建設業者にとって恐慌による仕事の激減は公共工事が命の綱であったし、政府も公共工 事に予算をつぎ込んだ。大恐慌は業者間の受注競争を激化させた。
そうした中でニューヨークなど都市部の地元業者は公共工事を容易に落札するこができなかった。 それは、アメリカ南部の「渡り業者」が賃金の安い労働者(主に黒人労働者といわれている) を引き連れ全国をかけ巡り、公共工事を奪い取るという現象が顕著になってきた。 このため主に北部の地元業者は安価な労働力を利用して入札価格を低く抑え公共工事を 落札する南部の「渡り業者」に太刀打ちできなくなり、公契約法を支持するところとなり、 1931年にアメリカでディヴィス・ベーコン法が成立することになった。
また、ヨーロッパではアメリカの法成立を30年も逆上る1891年(明治24年) イギリスで公正賃金決定がおこなわれ、フランスでは公契約規制といわれるミルラン命令が 1899年(明治32年)に成立して、それらの国ではその後建設労働者の賃金は確保されている。